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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

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2025年10月礼拝説教


★2025.10.26 「主をほめたたえ従う」 ルカ18:31-43
★2025.10.19 「信仰をもって神を待ち続ける」 ルカ18:1-8
★2025.10.12 「新しい命の絆に連なる」 ルカ17:11-19
★2025.10.5 「神の御心が地上に成りますように」 ルカ17:5-10

「主をほめたたえ従う」 ルカ18:31-43
2025.10.26 大宮 陸孝 牧師
「盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った」(ルカによる福音書18章43節)
  本日の福音書の日課18章31節以下の、イエスの受難と復活の第三回目の予告のところに、「エルサレムへ上って行く」という旅の枠組みが確認されます。その旅は、受難と十字架の死を承知の上で、この神の救いの計画に強い意志をもって敢然と従いエルサレムへ上るということを表しています。そのエルサレム上りの旅≠フ終着にさしかかる、それが35節「エリコに近づかれた」、そして19章1節で「エリコに入り」、11節で「エルサレムへ近づいておられる」、さらに29節まで行きますと、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づく」、そして37節「オリーブ山の下り坂にさしかかる」、そして41節「エルサレムに近づき、都が見えた」、そして45節でいよいよ「イエスは神殿の境内に入られた」、こうしてこの旅が終わるわけです。この旅の枠組みの中で、主題のひとつとなっておりますことは、救われる者はどういう人であるか∞神の国に入る人とはどういう人なのか≠ニいうことを、ずっといろんな例を挙げながら綴っている、本日のところはその中の一つと捉えることができると思います。

 ルカ福音書では、盲人の目を開く奇跡はここにしか出て来ておりません。7章18節以下のところで、バプテスマのヨハネから遣わされた二人の使者が「来たるべき方は、あなたでしょうか」と尋ねた時に、イエスが、「行って、見聞きしたことを……伝えなさい」と言う中に7章22節「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を聞かされている」、このように列挙されていますから、ほかにも盲人の目を開かれたことをルカは知っていると思うのですが、具体的な実例としては、このエリコの近くの奇跡ただ一つであります。

 さて、イエスがエリコに近づかれ、盲人が物乞いをしている前を人々が通って行くと、この盲人はただならない気配を感じたのでしょう。「『これはいったい何事ですか』と尋ねた」。すると、「ナザレのイエスのお通りだ」という返事が帰って来ました。人間がイエスのことを「ナザレのイエス」だと紹介するのはここが初めてです。そしてこの後ずっと使徒言行録に至るまで「ナザレのイエス」と言う言い方が増えて来ます。そしてそれを聞きました盲人は、「ダビデの子イエスよ」と言い換えて呼びかけたのです。この呼び方が39節にも繰り返されます。

 この「ダビデの子」という言い方で来たるべき救世主を表すのは、イエス様の時代から百年ほど前の旧約聖書と新約聖書の間の時代に表れました「外典・偽典」と呼ばれる『ソロモンの詩篇』と呼ばれる文書の17章23節、ここに出てくるのです。この時、主なる神が、苦しめられていた選民を救い出し、「ダビデの子」を遣わして、救われた選民たち、ユダヤ人たちの王者としてくださる、そういうメシア王として、「ダビデの子」という言葉が初めて出て来るのです。その意味では、大変はっきりとした政治的な救世主、神さまがイスラエルを救って、神さまがそのイスラエルの頭としてあてがう、遣わす「ダビデの子」なる「王」。こういう人物を表しているわけです。決して何か奇跡を演じて盲人の目を開いたり、死んでいた者を生き返らせたりしていくメシアではありません。

 そこからおそらくこのとき、盲人の言いました「ダビデの子」と言う呼び方は、そういう「ソロモンの詩篇」に表れて来る純粋な政治的な「救世主」と言う意味よりも、むしろ、癒す力のあるメシアとしての「ダビデの子」という意味なのだと思います。イザヤ書11章1節、エゼキエル書34章23節などに表れます「わが僕ダビデを起こす」という「ダビデ」です。ヤハウエなる神ご自身が、豊かなる糧と水とを与えて御自分の羊の群れを集めて養う。この神さまの養いにお使いになるのが、「わが僕ダビデ」と呼ばれるメシアです。このメシアとは平和の契約を結び、従ってこのメシアの世には羊たちは檻の中でも安らかに眠ることができる、こういう、神さま御自身が与えてくださる恵みと慰めの中で羊たちが飼われていくその一端を担う働き人、これが「ダビデ」と言われているのです。

 本日のエリコの盲人が「ダビデの子よ」と言っておりますのは、表現としては「ダビデの子」ですが、実際上は、旧約聖書が約束する「ダビデ」と言う意味で呼びかけているというのが正しいと思います。目を開くにしても、あるいは命の言葉を与えるにしても、とにかく、ヤハウエなる神の授けてくださる救いの恵みを取り次いでくれる人物としてのダビデ≠ナす。

 39節「黙らせようとしかりつけた」というのはこの前の18章15節で、「子どもたちを連れて来る大人を弟子たちが叱った」のと同じです。人の子の受難と復活の第三回の予告を聞きながらも何も理解できなかった弟子たち、この無理解がここでもまた主イエスの邪魔をすると言う格好で出て参ります。それにもめげず盲人は、「ますます、『ダビデの子よイエスよ、わたしを憐れんでください』」と願ったというのです。

 この「わたしを憐れんでください」という言葉は、わたしたちの礼拝式文にも用いられるようになった大変有名な表現なのですが、ことばとしては、エレイソン・メという単純な言葉です。聖書での使い方から見ますと、これはただ憐ぴんの情を持つとか、憐れみの情を催すというだけの言葉ではありません。むしろ、憐れんでそして癒すという実際の行動に出てくる言葉なのです。

 詩篇の6編3節(旧約838頁)「主よ、憐れんでください、わたしは嘆き悲しんでいます。主よ癒してください、わたしの骨は恐れ、わたしの魂は恐れおののいています」こういうふうに、「主よ憐れんでください」ということは、言い換えれば、「主よ、癒してください」ということなのです。同じように、詩篇41編5節(旧約874頁)「わたしは申します。『主よ、憐れんでください。あなたに罪を犯したわたしを癒してください』」と、このように続いています。

 ですからこれは、ただ目の見えないわたしを気の毒に思ってくれ、憐れんでくれ、ほんの少しでも生活の足しになるものをめぐんでほしい≠ニいう、そういう物乞いの台詞を言っているのではないのです。「救い主」として、ヤハウエの癒やしと救いの恵みを携えて来ている方、わたしを憐れんでください。わたしを癒してください。わたしを救っていただきたい、こういう訴えをしているのです。

 41節、では具体的に「何をして欲しいのか」と主イエスに尋ねられて、「目が見えるようになる、視力を回復すること」なのだと彼は言うのです。彼はこれまでは物乞いをしていました。目の見えない哀れなこの男を憐れんでやってください≠ニ言って物乞いをしていました。でも、主イエスに向かっては、いつものチャリンと入るお金の何倍ものお金を恵んでくださいよ≠ニいう問題ではなくて、自分の問題の因って来る根源の問題、目が見えないという問題、これを解決していただきたいという訴えなのです。

 「ダビデの子イエスよ」と言ってイエス様にものを頼むときには、自分の人生の現実の中のあのことこのこと助けが欲しいことはたくさんあるけれども、よくよく考えたら、そういうものは全部、いったいどこから出てくるのか、そういう人生の根源の問題を突き詰めて、これだというものをイエス様にぶつける、それが祈りというものです。わたしたちが祈りを重ねるということの本当の意味は、そこにあるのだと思います。あれやこれやの生活上の細々したことがかなえられていくか、かなえられていかないかということではなくて、そういういろいろなことを祈りながら、よく考えたら、あれもこれもそれも、実はもっと深いところに根があって、その根本的な的外れをわたしが悔い改めない限り、わたしの中にあるこの問題は解決しない。だから、あっちに痛みが走ったり、こっちに熱が出たり、と言う具体的な症状をおさめ、痛み止めを飲むだけでなく、これだと言うものを見つけ出す、それがイエスに対する本当の祈りなのだということでしょう。この盲人はそれを的確にしたということです。「主よ、目が見えるようになりたいのです。」こんなことは、ほかのだれにも彼は頼んだことはなかっただろうと思います。

 42節、主イエスはただひとこと「見えるようになれ」と言われ、43節「たちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った」。とあります。これが、同じ18章24節以下で問題になっています、金持ちの議員にすべてを売り払って=Aそしてわたしに従いなさい≠ニ言われたあの問題、それから、金持ちにはなんと難しいことだろう≠ニ言うので、人々は、それでは、だれが救われるのだろうか」と言って来たあの問題、そこにつながっているということなのです。このエリコの盲人は、売り払うべき何物も持っておりません。ですから、目がみえるようになったら、もうその場で即座に、あとは「イエスに従う」という歩みがあるだけでした。これを「あなたの信仰があなたを救った」と、イエスは言っておられます。ルカはこのイエスの非常に印象深い言葉を何度も繰り返しています。7章50節、8章48節、17章19節、そして今日のところがその最後であります。

 エフェソの信徒への手紙の2章8節(新約353頁)に「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことーつまり信仰は、自らの力によるのではなく、神のたまものです」と言われています。あなたがたが救われるのは信仰によるのだ。その信仰というものも、実は神さまからの賜物なのだから、人間の方には全く何の手柄もない、なんの誇りもない、何の行いもないこのように言われるのです。また、ヘブライ人への手紙11章1節のところでは「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」だと言う風に、まだ見ていないこと、でも、こうあってほしいと望むことを先取りして、実現したかのように見てとること、これを、ヘブライ人の手紙は11章1節から12章にかけて、続々と旧約の証人たちの例を挙げながら語っているのです。

 つまり、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」と相手に対するその相手の力、相手が憐れみのある方であるという信頼というものがあって、その信頼に応える形で「あなたの信仰があなたを救った」と言う展開になっていることに注意すべきであります。

 このことが示していますことは、わたしたちは、神さまからの御利益をただ受け取ればよいというのではなく、救いなり癒やしの恵みをいただいたわたしと、その恵みをくださった主との間の繋(つな)がりがそこにできて、それから後の生涯がイエスとの切り離すことのできない結び付きになること、これが「信仰」なのだとルカは言いたいのです。それが「イエスに従った」という歩みになって起こっていることだというのです。そして、ここに至って初めて、わたしたちの根源的な問題は、恵みと憐れみに富む神との関係が破れていたことにあったということが明確になるのです。

 「神をほめたたえながら、イエスに従った」(43節)この視力を回復された盲人はイエスに従ってエルサレムへの旅路に連れ出されます。それは神を讃美しながらの歩みでありました。この旅路にわたしたち教会の信仰者も参加しているのです。今、教会の頭として、わたしたちの真ん中にお立ちになっておられるイエスは、わたしたちを罪から解放するために辿られたエルサレムへの十字架の道のりを、憐れみ深く弟子たちと共に歩まれた方であります。今朝はそのことを深く心に留めたいと思います。

 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平安とであなた方を満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。

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「信仰をもって神を待ち続ける」 ルカ18:1-8
2025.10.19 大宮 陸孝 牧師
「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか」(ルカによる福音書18章7節)
 本日の福音書の日課はルカ福音書に独特なたとえ話です。17章11節では、「イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られ」て道々ずっと教えが続いて、その文脈を辿り行きますと、人々の救いのための受難の決意も固く、十字架の待つエルサレムへの旅も残り少ない日々を、ひたすらな思いで歩み続けるイエスの姿と、その歩みを止めて語られた終末を待つ祈りの教えへと続いています。

「人の子の日」「人の子の顕れる時」終末のキリスト再臨に切実な思いをもって備える心構えを教えて来られたくだりです。日本語訳では18章1節に、「弟子たちにたとえを話された」と書かれています。原文ではただ「彼らに」となっているのですけれども、この「彼らに」は、明らかに17章22節の「弟子たちに言われた」言葉、これを受けて続いている主イエスの話ということになります。

 2節から5節にその「たとえ」が語られます。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった」とありますこれは原文では「しかし彼は意思しなかった、願わなかった」という表現です。ただスローモーでやるこことが遅いとか、あるいは怠慢のために日がどんどん経っていったというのではなく、はっきりと「彼はそれを行う意思がなかった」。こんなうるさい面倒な事件に巻き込まれて、やもめの相手方と渡り合ってでもやもめの正義を守るという、そういう面倒なことを嫌がるという感じです。しかし、その後に考えを変えて『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない』」。と態度を変えるのです。「さんざんな目に遭わせる」というのはボクシングなどで相手の顔を殴って"目の下に隈が出来てしまう"という表現です。つまりメンツを潰されてしまうかも知れないと言う意味で使われている表現と解釈されます。

 ここに登場します人物は、「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」です。ここでの表現、「神を畏れず人を人とも思わない」というのは、ユダヤだけでなくローマでも語られていた"傍若無人で尊大な"人柄を形容することわざのような言い回しでしたが、これを裁判官に適用している意味は「全く不適格な裁判官」ということになります。旧約聖書の歴代誌下19章6節以下に、ユダの王ヨシャファトが裁判官たちを戒める言葉が書かれています。「彼は裁判官に言った。『人のためではなく、主のために裁くのだから、自分が何をすべきか、よく考えなさい。裁きを下すとき、主があなたたちとともにいてくださるように。今主への恐れがあなたたちにあるように。注意深く裁きなさい。わたしの神、主のもとに不正も偏見も収賄もない』」このように戒めています。

 イザヤ書1章で、当時の不正な社会を預言者イザヤは弾劾しているのですが、15節以下「お前の血にまみれた手を、洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ、善を行うことを学び、裁きをどこまでも実行して、搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ」と訴え、続いて23節「支配者らは無慈悲で、盗人の仲間となり、皆賄賂を喜び、贈り物を強要する。孤児の権利は守られず、やもめの訴えは取り上げられない」となっていますから、主イエスが語っておられるたとえ話の裁判官は実際に本当の失格者であるということになります。

 ここで重要なことは「神を畏れる」ということと、「人を人とも思わない」と言うことが切り離されることなく、結びつけられているということです。信仰とは、神を畏れることに始まります。神を畏れるとは、神の裁きを恐れることです。全く神を畏れることのないところに、人間の悲惨がある。そして、神を畏れることがないがために、そこに起こってくることがある。それが「人を人とも思わない」ということです。神との関係を正しく生きることと人と人との関係を正しく生きることとは、聖書においては切り離すことができないのです。神を神としないために、人を人としても重んじることができなくなるということが起こるです。逆に言いますと神を神として畏れるときに、人を人として重んじることも生まれてくるということです。

 たとえに登場している裁判官は主イエスによって「不正な裁判官」と呼ばれていますが、この「不正」とは「神を畏れず人を人とも思わない」ということです。このような裁判官がいた町に、一人のやもめが登場します。そして、彼女は、このひどい裁判官のもとにやってきては「相手を裁いて、わたしを守ってください」と、しきりに懇願します。このやもめの困窮が具体的にどのようなものであったのかはここには何も記されてはいませんが、彼女は「相手」と呼ばれている他者から何か酷い目に遭わされていたということでしょう。聖書においては前掲のイザヤ書にもありますように「やもめ」はいつも守られ、配慮されることを必要としている存在であり、弱き者の代表的な存在でありました。そして、このやもめの存在が、どのような扱いを受けているかが、その国家、社会、また共同体の指標となるということでもあったのです。

 そのようなやもめが、困窮の中に置かれたままになっていた。このように見て来ますと、「神を畏れず人を人とも思わない」ということは、この裁判官だけのことではないと気付かされます。やもめを苦しめていた「相手」もそうであったし、さらにまた、このやもめを取り囲んでいる世界そのものもまた同じであるということです。やもめはそのような世界の中に放置されて生きていたのです。そこで6節で「それから、主は言われた。『この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。』」といわれます。「言いぐさを聞け」と言いますと、何か軽蔑の意味をこめた悪い意味の台詞のようですが、これは、「何と言っているかを聞きなさい」と言う言い回しで、それはどのことを指しているかと言いますと、5節の真ん中にあります「彼女のために裁判をしてやろう」と決断したことを受けている言葉と見ることが出来ます。

 ここでわたしたちが問わずにおれないのは、このやもめとは誰のことであるのかであります。主イエスご自身が、「神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たち」(7節)についてここで語られていますことから、このやもめとは、神の民、教会のことであることが明らかとなります。

 やもめとは教会のことです。この教会こそ「選ばれた人たち」の群れ、共同体であります。「選ばれた人たち」とは優秀な人たち、エリート、強者のことではありません。このやもめに代表される弱者であります。選びの信仰とは何かを本日の日課は明らかにしています。選びとは、神の恵みによって神の民とされたことを明らかにするものです。

 このやもめを取り囲む現実、「神を畏れず人を人とも思わない」この現実は、わたしたちの世界の現実でもあります。問題はそこでわたしたちがどう生きるのかです。やもめはただ涙を流しているだけではありません。また、独り言をつぶやき、悲しみを引きずって自分の周りをぐるぐる堂々巡りしているのでもありません。このやもめの特質は、このような現実の中で、決してあきらめないことです。あきらめないで何度も裁判官に訴えます。もう一方で、裁判官はやもめの訴えに根負けしてついに聞き届けてくれるのですが、神はこのような裁判官のような方だと言いたいのではありません。そうではなく、全く反対に、不正な裁判官でさえそうであるのならば、とこういう不正で悪い人間の姿をたとえに取り、そういう不正な裁判官、失格の裁判官と貧しい寡婦とは、縁もゆかりも無いのに対して、こちらは神自らお選びになった"選びの民"たちのために「ましてや義なる真実な方である神は自らお選びになった信仰者の群れのため」に速やかに裁いてくださる。神は、教会がその恵み深い、憐れみ深い神の速やかな裁きに信頼し、自らを委ねて行く信仰の道を開いてくださっているということを主張しているのです。

 教会の嘆きは神に向かっているのです。自分の困窮に向かい合ってくれている相手が存在する。その相手に信頼を置いて、自分の訴えを聞き届けてくれるその信頼がいささかも揺らぐことなく訴え続けているのです。やもめは自ら弱く、無力であることを知っています。だからこそ裁判官のところに行き、しかも、一度だけではなく何度も繰り返し足を向けたのです。そのようにして、彼女がひたすら求めたのは「相手を裁いて、わたしを守ってください」ということでありました。正当な裁き、正義が行われることであってそれ以外のことではありませんでした。ここに再臨を待ち望む教会のあるべき姿が示されているのです。この日にいたるまで、教会は祈り続けて来ました。今ここに至るまでの教会の全歴史が、ここに、このやもめの姿に映し出され、そして、その教会の救いの歴史の先端にいるのがわたしたちの今日の教会であるということです。「気を落とさずに」、試練や迫害や困難があっても「落胆しないで」祈り続けなさい、神は必ず訴えを取り上げて裁いてくださる 不義不正はいつまでも続くことは決してない、やがて世の終わり、再臨の日にはそれらは終結するのだからと主イエスは教会を励ましておられるのです。

 聖霊降臨によって誕生した教会は、主イエスが再び来てくださるその時まで、この一人のやもめのように、主に向かって叫び続け、願い求め続ける群れであります。一人のやもめとして、この世にあって不正が行われ、罪と悪の力が思うがままに力を奮い、「神を畏れず人を人とも思わない」世の荒波の中にあっても、教会は神がいますこと、そして神の義の支配を信じ続け、気落ちしないで絶えず祈り続けます。そして、主イエスはそこに既に神の国は到来していると告げられます。つまり、教会の群れは神の国のしるしなのです。神の国のしるしは、このやもめのような見捨てられたかのような弱さ、小ささの中にあって、失望せずに祈り続ける主の群れの中に既に来ていると約束されているのです。

 弟子たちを中心とする人々へのイエスの、失望することなく常に祈るべきことを教えられる教えの結びは「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見出すだろうか」(八節後半)であります。人間の緊迫した現実の状況に対して、神はご自分を呼び求めるものの支えとなり、イエスに対する信仰を告白する者の正しさを擁護し、なお、御言葉を持って導こうとしておられる。しかし、地上の人間の現実を見るとそこに問題がある。それは、その人間の深刻な現実の問題の中で、失望や挫折で信仰を失う者が多く出るということです。そして、せっかく窮状の中にある選民を最終的に神の国へと導くために人の子が来た時に、地上には信仰がなく妥協による安逸だけがある、ということにならないか。本当に問題なのは神ご自身が憐れみをもって、全身全霊でわたしたちのために救いの業をなさろうとしておられるのに、教会に深い神信頼がなくなってしまい、祈りもなくなってしまうということです。

 十字架に進み行くイエスは、人々の無理解と迫害の世に残してゆく教会の人々が、やもめのようなその無力をもおそれず、再び来たりたもうイエスを信仰を持って待ち続ける生活を日々歩み続けることを迫っているのです。来たるべき御国への神の約束をしっかりと受け止め、固着しながら、ひたすら祈り続け、必ず来る人の子を信仰を持って待ち続けたいと思います。

 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平安とであなたがたを満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。
 
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「新しい命の絆に連なる」 ルカ17:11-19
2025.10.12 大宮 陸孝 牧師
「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た」(ルカによる福音書17章15節)
 ルカはかつて自分が仕えた領主テオフィロに献呈するために、イエス・キリストの生涯と十字架の死と復活の出来事を「順序正しく書き」つづり、三つに分けて記して行きます。その第二の部分9章51節から19章27節まではエルサレムへの旅と呼ばれています。この第二の部分でルカは繰り返し、イエスがエルサレムへの旅の途上にあることに言及して、それに続く第三部では、イエスの活動の中心がエルサレムの神殿の庭であったことを記しています。この傾向はキリストの受難、復活の出来事の記述にも貫かれています。たとえば、キリストの昇天の後、弟子たちはエルサレムに留まり、絶えず宮詣をしている(24章52節)さらにルカ福音書の続編であります使徒言行録でも、教会の宣教がこのエルサレムから始まって(使徒1章4節)、やがてついに当時の世界の中心であったローマに至る様子が描かれて行きます。

 ルカはそのような描き方で表そうとしたのは、イエスの出来事が持っている圧倒的な力そのものによるイエス・キリストの出来事は、全世界に救いをもたらす恵みの出来事であり、このイエスが全世界の主であるとの確信を持って、この福音書並びに使徒言行録を記しているということなのです。

 ルカはエルサレム、神殿に固着し、さらに世界の中心ローマを目指しているかのように見えますが、しかし決してユダヤ教への回帰を求めたり、ローマ帝国に従属する道を求めたわけではありません。むしろ、イエス・キリストの絶対的な福音の恵みを確信していたがゆえに、ユダヤ教との違いを明確にし、かつ全世界の真実の救い主がイエス・キリストであることを明らかにしようとしているのです。

 ユダヤ人と異邦人、富める者と貧しい者、神の前に正しい者と罪人というように、人間を峻別しようとするユダヤ教の限界をイエス・キリストの福音によって明確に認識させられたルカは、このキリストの福音が、全世界の全ての人々に開かれていることを明らかに示そうとしてこの福音書を書いたのです。本日の日課においても、またそのことをよく表していると見ることができます。ユダヤ教世界では絶対にあり得なかったことであるにもかかわらず、ハンセン病であった十人の者はユダヤ人とサマリヤ人の混在する集団であったことを当然のことのように語っています。こうした記述の中に、選民意識に基づく狭い民族主義が打破され、キリストの福音をもとにした世界観が貫かれています。

 ルカ福音書ではすでに5章12節〜16節にも、ハンセン病人の癒しの物語が記されておりますが、本日の17章の場合には何と言っても十人の者たちが群れをなしている点に大きな特徴があります。しかも16節によりますと、この群れはユダヤ人とサマリヤ人が混在する集団であります。当時のユダヤ教社会では、サマリヤ人とユダヤ人との間の憎み合いの壁については根が深く、二千年経った今日でも続いているほどです。ですから、このようなことは一般的にはあり得ないことであります。ただ、ハンセン病という困難を抱えた闘いの共有ということが、当時の絶対的とも言える分裂の壁を超越させていたということです。十人の者は、ハンセン病という人生の未曾有の戦いの共有者として、一般社会から排除されることで、一つの群れを形成していたということです。しかし、それは彼らが好んで自分たちの群れを形成したのではありませんでした。彼らを囲む社会が彼らをそこに追いやり、一つの群れを形成させたと言うことでありました。自らは健康で正常と自負する社会が、弱者を切り捨て、排除し、そうすることで自らを守ろうとする社会の姿が彼らの背後に見えて来ます。ハンセン病を医学的に克服する術を持たない当時の社会の状況を考えれば、それはやむを得ないことであったのかも知れません。

 しかし現代ではこの問題は医学的には既に克服されているにもかかわらず、かつてハンセン病だった方々がなお根強く残るわたしたちの社会の偏見と医学的無知のために、社会復帰できないでおられる現実をも見据えながら本日のこの箇所を読んで行かなければならないと思います。

 それで、このように十人の者たちが、その病のゆえにその人間性も否定され、~に呪われた者として社会から排除されていましたが、しかしそのような状況の中でいわゆる通常の社会が生み出し得ないでいるユダヤ人とサマリヤ人との共生が、このような被差別に生きる人々において起こっているという事実に注目させられるのであります。イエス様はまさにそのようにして生きている病める十人の者たちと出会われたのであります。十人は律法の定めに従って、遠方から大声で主イエスに向って叫びます。(レビ記13:45〜46)「イエスさま、わたしたちを憐れんでください」。彼らの叫びは切羽詰まった人間のぎりぎりの戦いを感じさせる叫びであります。

 14節 イエスはこの一〇人の者たちの叫びを決して見逃しません。他のすべての者が彼らの大声を無視し続けようとも、キリストはその叫びを深く聞き届けておられる。しかし、ここでは何故か5章の場合と違って彼らに触れられないで、直ちに祭司の所へ行って体を見せるように命じられるだけであります。その場で癒しの業をなされず、祭司の所へ向かう途中で癒されたと語るこのできごとにも深い味わいがあるように思われます。ここのところでの癒しの出来事の場合には、一〇人の者はイエスの命令に信頼して、まだ実現していない癒しを、しかし必ず癒されると信じて祭司の所に向かう信仰が求められているのです。そしてイエスの命令に、信じて従う行動の中で彼らは癒されていくのです。信仰には、このようにまだ見ていない将来を、しかしイエス・キリストへの信頼のゆえに既に見ているかのように希望と確信を持って生きて行く、そういう側面があることを描き出しているのです。(ヨハネ20:19)

 15節〜18節 癒された一〇人の中の一人が、踵(きびす)を返してイエスのもとに戻り、心からの感謝を表しています。「大声で~をほめたたえながら帰って来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した」と描き出されている彼のこの様子は、~の救いにあずかった者があらわす歓喜の姿であり、彼がまさしく礼拝者としてキリストの前に跪いていることを物語っています。(イザヤ35:10)

 彼のこの歓喜は、彼がキリストの癒しの中に~の深い恵みと憐れみを実感していること、彼が決して~の呪われた存在ではなく、計り知れない~の祝福の中にあることを、ハンセン病の癒しのできごとを通してその身いっぱいに感じ取っている姿であります。

 しかし、どうして彼だけがキリストのもとに戻ってきたのでしょうか。残りの九人はどうしてキリストの元に戻らなかったのでしょうか。この謎を解く手掛かりは、「これはサマリヤ人であった」(16節)という短い言葉にあるように思います。

 考えて見ますれば、ユダヤ教の祭司のもとへ、サマリヤ人の彼が素直に行くことがどうしてできるはずがありましょう。彼は異邦人であり、ユダヤ人からは排除されていました。一方ユダヤ人であった九人の者たちは途中で癒されたと分かったとき、それこそ胸を張って祭司のもとにはせ参じることができたことでしょう。そして祭司から掟にしたがってハンセン病が癒されたことを証明してもらえれば、直ちに彼らは~の民イスラエルの共同体に復帰することができます。しかし、このサマリヤ人の場合には事情が違っています。彼も道の途中で他の九人と同じようにその身の癒されたことを知りました。しかし他の九人と違って、彼には祭司に証明してもらう道は閉ざされていたのです。ここにあの九人の者たちとこのサマリヤ人との間の決定的な違いがありました。このようにして九人の者は去り、サマリヤ人はキリストのもとに戻って来たのです。いや、キリストの元に戻って来る以外に道はなかったのです。ですから、キリストのもとに戻った一人がたまたまサマリヤ人であったと言うことではないということを、わたしたちははっきりと認識しなければならないのです。一〇人のうち帰って来る者があるとすれば、それは必ずサマリヤ人に違いなかったはずなのです。

 ところで、彼ら一〇人の群れはハンセン病であった時にはその生活の絆が固く結ばれていたのに、ひと度その病が癒されると、その結びつきも壊れていく。そして両者の間にユダヤ人とサマリヤ人の障壁が再び表れていることを見逃すことはできません。彼らの苦しみの根源が取り除かれた時に、かえってあの苦しみの中での絆の内実が問われる結果となっている点に問題の深みがあるのです。

 サマリヤ人はこのようにして、一人取り残されて、キリストのもとに帰って来ました。しかし、彼は明るく輝いている。彼の様子は決して孤独ではありません。かつての友だちに取り残された孤独をはるかに超越した深い喜びを、キリストによって彼は得ているのです。そこにはむしろキリストと真に出会うために、その友だちと主体的に訣別してきたような強さと確信が漲っているのです。しかも彼の態度は、単に肉体の癒しに喜び踊る様子をはるかに超えて、イエスの中に、天地を創造し、病む者を癒やす神の全能の力が働いているのを見、神の臨在を見て、心から~を仰ぐ礼拝者の姿そのものをあらわしているのです。彼はここにおいて神の恵みの業に立ち帰り、そこが彼の新しい人生の起点となり、出発点となり、中心となり、支えとなって行くのです。

 その彼に対してのイエス様のお言葉ですが、17節〜18節 そこには戻ってこなかった九人の者に対する深い嘆息と悲しみが込められているようです。さらにかつての一〇人の絆が、癒しと共にかえって崩壊していることへの嘆きをも含んでいるようです。しかし、それでもこのサマリヤ人が戻って来て~を賛美している事実の意味は、測り知ることができないほど大きいものがあるように思います。ユダヤ教から疎外されていた異邦人の彼が、イエス様を真の祭司として受け入れ、このイエス様から病の癒しの証明を得て充足しているのです。ユダヤ教の枠組みの中に縛られていた九人の者にはそれができなかった。ですから彼らは、ユダヤ教の祭司のもとへと伺い、キリストとの絆は途絶えてしまっている。ここにユダヤ教が持っている限界が示されているのです。それと共にキリストの福音が、民族や文化の壁をつき破って、世界へと拡がって行く救いの御業、~の救いの働きが力強く世界に拡がって行くものであることを高らかに宣言されていると受け留めなければなりません。

 わたしたちは自分を中心にして絶えず囲いを設け障壁を築いて、他者をふるい分け区別し、排除し、自らの安全を守ろうとします。これがわたしたちの罪の本質なのです。イエスは、この罪の本質である障壁を打ち破られ、乗り越えて、真に~の恵みによる人間の平等と、共に生きる道を探り求めて行く勇気と力とを与えてくださるように祈りつつ歩む信仰の道へとわたしたちを導いてくださろうとしています。

 一九節「立って行きなさい」。イエスは、この癒されたサマリヤ人をご自分のもとに引き止めるのではなく、この人自身の生きている生の現場へと再び送り出されます。そこでは必ずまた厳しい信仰の戦いがあるであろうことが予想されます。かつてハンセン病であったことに対する偏見や差別は相変わらず彼に向けられるでしょうし、加えて彼の身に幾分かの後遺症が残っている場合には一層の拒絶が彼を待ち受けているでありましょう。ここでの病の癒しだけで万事めでたしめでたしと言うわけには決して行かないこともイエスはご承知でありました。

 それにもかかわらず、彼は決して孤独ではありません。彼の叫びを聞き届け、彼を癒されたキリストが彼の隣にいつも立ち、共に信仰の戦いを戦っていてくださる事を彼は信じたからです。このサマリヤ人は、彼と共にいてくださるキリストを自分の人生の真の支えとして、必ず生き抜いて行くことでありましょう。人間の罪の現実が必ずあるにもかかわらず、そこで、彼がかつては持っていたはずのユダヤ人への憎しみの思いから根源的な所で開放されて、彼もまた他者を赦し愛する歩みへと絶えず向かっていくはずであります。ここにキリストに出会った者の新しい生き方があるのです。

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平安とであなた方を満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。

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「神の御心が地上に成りますように」 ルカ17:5-10
2025.10.5 大宮 陸孝 牧師
「自分が命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕(しもべ)です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」(ルカによる福音書17章10節)
 イエスはガリラヤからエルサレムへ向かう途上で、弟子たちや群衆、そして、ユダヤ教の指導者たちに信仰について教えられました。本日の日課のところも、エルサレムへの途上で折にふれて、語られたものをルカが編集してここにまとめていると見ることが出来ます。共観福音書のマタイやマルコはこれらの言葉を違う文脈の中で記していますが、本日はその中で、ルカだけが伝えている言葉7節〜10節までを含む5節から10節のところを読んで参ります。

 5節、6節 「使徒たちが、『わたしどもの信仰を増してください』と言ったとき、主は言われた。『もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、「抜け出して海に根を下ろせ」と言っても、言うことを聞くであろう』」。

 ここで使われています「増してください」という言葉の本来の意味は「傍らに置く」という意味で、何か別のものを追加するという意味があり、癒やしとか他の賜物に加えて「信仰も追加してください」という意味として解釈できます。そして、もう一つは、既に信仰はあるのだけれども、さらに信仰を増し加えてください≠ニいう意味とも取れます。これを願っているのが弟子たちでありますので、既に信仰を持っている人たちが、さらに信仰を増し加えるという意味で、「増してください」と言っているのでしょうけれども、イエスの答えは、この「信仰を増してください」という願いにはかみ合わないものになっています。「からし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に」命じて「海の中に根を下ろせ」と言っても、その通りになる、と言われます。「桑の木」がのこのこと海まで移動して行って海の中に根を下ろすなど、人間の常識で考えても、とうてい出来るとは思えない、そのような不可能なことが可能となるというたとえをここで語っておられる。この「からし種ほどの信仰があれば」、不可能と思うことでもできるというイエスの答えは、「信仰を増してください」という弟子たちの願いに対する答えとしては理解困難であるように思われます。そこでもう一度この弟子たちの願いがどこから生じてきたかと言うことを探って見ようと思います。

 ルカ福音書はこれまでに、悪霊を追い出すとか、病の霊を追い出して癒やすとか、いちじくの木をたちまち枯らすとか、あるいは目に見える物理的な奇跡ではありませんが、「小さな者を躓(つまず)かせない」とか、「兄弟の罪を無条件に一日七回も赦せ」との教えとか、実際に実行不可能と思えるようなイエスの言動を語って来ています。そのイエスの言動によって示されていること、あるいはイエスの言動によってもたらされているものは何かと言いますと、神の新しい支配のしるしとしての人間の罪への裁きであるとか、罪からの解放であるとかを表している神の御業、さらにはその神の愛と赦しに基づいた生活、小さな者を決して躓(つまず)かせないで大事にするとか、罪深い者を赦すとか、本日の日課で言いますならば、17章1節から6節までの教えを聞かされて、そんなことはとうてい人間の業としてわたしたちにできることではありません。どうか、それができるようになる信仰をわたしたちに増し加えてくださいと、弟子たちはイエスに願い出たということです。それに対してイエスは、これは信仰の量の問題ではない。質の問題である。「からし種一粒ほどの真実の信仰を持っているならば、あなたがたが不可能と思っていることも可能となる」とイエスは語っておられます。

 ここでイエスが語っておられる信仰の質、真実の信仰というのは、人間の信仰心とか信心、信じている心の強さ、あるいは人間の努力や功績で何かを獲得したり、奇跡的な出来事を起こして見せたりというようなことではありませんし、賜物運動のようなことでもありません。イエスがなさっておられる力ある業や権威ある教えは、そもそも人間の業としてできることではなく、神から来たものであるということ、それを使徒たちは理解していなかったのだということになります。言葉が発せられて、その言葉通りになるというのは、神の言葉だからであります。神が人間を通して語らせられるままに語られ、行わせられるままに行われるところに人間の信仰があるのであり、信仰は、人間を超えた神の力を人間を通して実現させられる神の出来事なのだということです。そういう意味で信仰を求めるということは、神の意志を求めると言うことに他なりません。わたしたちが「わたしたちの信仰」と言って、自己満足や自己実現的な信仰を求めているそういう問題がここで浮き彫りになっているのです。わたしたちは、神の意志が人間世界において十全に実現して行くことをこそ祈り求めて行かなければならない。そのことが、次の七節から10節のたとえで語られて行くことになります。

 7節から10節は神と人間との関係を主人と僕(しもべ)の関係にたとえているのですが、「あなたがたのうちのだれか」が畑の持ち主あるいは羊の飼い主で、この主人が奴隷を使う時の態度や考え方を語り、10節では今度は「あなたがた」は僕の側に逆転して「あなたがた」は僕としてしなければならないことをみな果たした時に「取るに足りない僕です」と言いなさいと言っています。

 主人と僕(しもべ)という関係を今日のわたしたちに関わる事柄として捉えることは大変理解困難になってきているのではないでしょうか。と言いますのは、僕の働き・行為が報酬につながる働きとして言われているのではなく、僕としての当然の奉仕として語られているからです。現代に於いては、こうした主従関係は克服されるべきものと考えられているのが一般的ですから、こうしたたとえに含まれている人間存在の支えとなるべき真理『神の言葉』を聞き取れなくなり、見失ってしまっているというのが現実ではないかと思います。

 事柄を明確にするために、7節、9節、10節にあります「僕」ということばドゥーロスについて考察する必要があります。「ドゥロス」は奴隷と訳せる言葉です。奴隷とは、命の権限や責任が主人に預けられている者です。このような自分以外の他者に命の権限が預けられていることに対しての抵抗と戦いが長い歴史の中で繰り返され、一人一人の人権を勝ち取って来たのが紛れもないわたしたちの歴史でもあると言うことが出来ますが、しかし、その果てに命の権限を自分で掌握し、自分の存在の意味は自分で紡ぎ出すと言う現代の価値観に立ち至っているのですが、それは果たして究極的な真理と言えるのだろうかと、問われているのです。

 詩編23編には「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」(1節)という、人生の困窮を貫いて養っていてくださる飼い主を持つ幸いが語られています。わたしたちはそれを忘れ去って、自分のことは自分でという、貧しい人間の内側への循環に捉えられてしまっているのではないか。このたとえが向けられているのは、ユダヤ教とりわけファリサイ主義的な価値観に対してであると同時に初代の教会の指導者たちにも向けられていて、それは神に見返りを求める態度であり、それが弟子たちにも、さらには普遍的に人間全般につきまとう問題として語られているのです。人間自らの働きが神の前や人の前での立場を作ると考えるこうした考えは人間に普遍的にある考えで、自分の行為によって自分の存在を確かなものに確立する。ある人が成した特殊な行為に対して、感謝や賞賛が与えれら、その人は自分の功績に対する社会的な承認を得て、そこでその人は、その社会や共同体の中で、僕(しもべ)となっているのではなく、発言権や主導権を獲得して主人となっているということがあるのです。

 人間が自らの考えや行動をよりどころとして立とうとした結果、かえって確かなよりどころを失い、焦りや他者への羨望に立たされ、結局は迷いと苦しみに立たされる。自分で自分を確立すると言う価値観が、どんなに働いても何をしても満たされる事の無い空しさや疲れだけが残り、わたしたちの命を生かしたもう神からも引き離されてしまうということが起こって行きます。

 現代の労使関係においては、働きが存在の場所を獲得させます。働きがあっての存在です。しかし、僕(しもべ)・奴隷は働きの場所は主人の家にすでに備えられていて、僕の働きが主人の家での居場所を切り開くのではありません。僕はそこに生きるべくして呼び出された者なのです。初めから彼には寝場所と食事が用意され、そこに置かれていたのです。このたとえは人間の行為において神に近づいたり、神を近くに呼び寄せたりする人間のあらゆる試みと思考の道を絶ちながら、わたしたちがすでに真実な主人としての神によって命を与えられ、生きることを赦され、かつ生きる場所も与えられていることを語っているのです。この神の恵みの前で、わたしたちのいのちはあるがままで絶対的な価値を持っている。わたしたちの真実のいのちの支えはそこにこそあると示されているのです。

 10節「自分が命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕(しもべ)です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」ここで語られている「取るに足りない(アクレイオス)」は〈役に立たない〉というよりも〈価値のない〉ものという意味合いを持っています。9節の「主人は僕に感謝する」はずもないものでありますが、しかし、命じられたことはあるのですし、「しなければならない」こともあるのです。役に立つか立たないかという問題ではなく、当然のこととして求められる働きはあるので、その当然の働きをしたからといってそこに取り立てて価値があるというわけでもないという意味を含んでいます。つまり、ここで語られる行為は、報酬のための労働という概念から解放されて、ただひたすらに〈奉仕〉として注がれる行為のことであります。命の主なる神への奉仕としての行為がここで求められているということです。

 信仰によって義とされる「信仰義認」を主張するルターは、1520年に「善行論」を著しています。「信仰義認」が人間の善行を行う責任を緩めているとのローマ教会の批判に対する反論として書かれたものです。そこでのルターの主張によりますと、第一に信仰・信頼という業、第二に栄光を神に帰すという業、それに続いて肉を抑制しながら生活を整えることが語られています(ルター著作集第一集第U巻)。業によらない、神の恵みによる救いは、ルカにおいても普遍の真理として語られていますが、しかしその上で、神の僕は奉仕するものであるということも受け取るべき一つの信仰の事柄として告げられています。

 「取るに足りない」というのは、行為の足りなさや空しさをいっているのではなく、行為があることが当然であること、信仰者としての行為すなわち礼拝をしたり、祈ったり、他者を愛し他者の悩みを引き受け、欲望に引きずられないように生きることが、信仰者としての存在と深く結びついていて、「取るに足りない」とは、そうした信仰者として成すべきことが十分であるかどうかを問い、なおかつ、十分であったとしてもそれは当然なすべきことであるという姿勢のことを言っているのです。

 「しなければならない(オフェイロー)」は義務感でするというよりは、人間が神に感謝をあらわす行為として奉仕するということ言っています。感謝が奉仕する行為の源泉となっています。ですから、「しなければならない」というよりも、喜んで奉仕する義務を負うということであって、感謝に裏付けられた奉仕を意味しているのです。コリントへの第一の手紙9章6節には「そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」とのパウロの言葉がありますが、こことつながっています。感謝に押し出されて義務を喜んで負う僕の姿がここに描かれています。その感謝と喜びは、主人によって救われたということから生じています。

 ルカが本心からこの喜びを語ることが出来るのは、もともとルカは領主テオフィロのもとで、専属の医者(奴隷)としてテオフィロに仕えていた身でありましたが、解放されて後、パウロによって福音に触れ、人間の奴隷から解放されて、今度は神の確かな命の中に自らを置き、喜んで神に仕える者とされたという自分自身の経験に基づいていたからでした。従ってここはルカの思いがこもった、心からの信仰のことばであることがわかります。自分の命や存在が自分以外の確かなものに支えられる平安と喜びがここにはあります。

 「しなければならないこと」わたしたちは、神の恵みの言葉に徹底的に耳を傾けて、神の命じられるご意思そのままに自分を貫いて実現することを求め続けていれば良いのです。それが信仰の内実です。

 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平安とであなたがたを満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。

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